世の中は、いつの間にか二択を迫る空気で満ちています。
右か左か、賛成か反対か、正しいか間違いか。
医療の話になると、「西洋医学派か、東洋医学派か」という構図が、まるで前提条件のように現れます。
SNSを開けば、どちらか一方を信じ抜く強い言葉が並び、反対側に立つ人を切り捨てるような表現も珍しくありません。
その光景に、息苦しさを覚えたことはないでしょうか。
実は、私はその真ん中に立っていた人間ではありません。
むしろ、一度ははっきりと、どちらかに寄っていた側でした。

西洋医学が見ている「木」の確かさ
西洋医学の力は、とても明確です。
検査によって異常を特定し、原因を見つけ、必要な治療を施す。
それは、一本一本の木を正確に見る行為に近いと感じています。
折れている枝、虫に食われている幹、今すぐ対処しなければ倒れてしまう木。
そうした危機を見逃さず、迅速に判断する力は、命に直結する場面で何度も人を救ってきました。
私自身、急な体調不良で病院にかかり、検査と処置によって短時間で回復した経験があります。
そのとき感じた安心感は、科学的な医療への信頼そのものでした。
ただ同時に、数値では説明しきれない違和感や、慢性的な不調が残ったのも事実です。
木ははっきり見えている。
けれど、森全体の空気や流れまでは、少し掴みにくい。
そんな感覚が心に残りました。
東洋医学が教えてくれた「森を見る」感覚
その違和感を抱えたまま出会ったのが、東洋医学でした。
問診は長く、生活や感情の話にまで自然と踏み込んでいく。
体を部分ではなく全体として捉え、不調を流れやバランスとして見る視点に、私は強く惹かれました。
「最近、無理していませんか」
そう聞かれたとき、責められている感じはなく、
ただ見透かされたような気持ちになったのを覚えています。
その頃の私は、気づけば「東洋医学派」になっていました。
こちらのほうがわかってくれる。
こちらが本質だ。
そんな思い込みが、少しずつ強くなっていたのです。
今振り返ると、森を見てもらえている安心感に、寄りかかりすぎていたのかもしれません。
派閥と「木を見て森を見ず」という落とし穴
なぜ人は、派閥に分かれてしまうのでしょうか。
それは、知識の多さよりも、不安の問題だと感じています。
自分の選択が間違っていないと信じたい。
その気持ちが強くなるほど、他の視点を遠ざけてしまう。
「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、
これは西洋医学を否定する言葉ではありません。
東洋医学にも、同じことは起こり得ます。
私の解釈では、西洋医学は木を見るのが得意で、
東洋医学は森を見るのが得意。
ただそれだけの違いです。
だからと言って、西洋医学が森を見ていないわけでもないし、
東洋医学が木を見ていないわけでもありません。
問題は、受ける側がその特徴を知らないまま、
「どちらが正しいか」という土俵に立ってしまうこと。
その瞬間、世界は少しずつ狭くなってしまいます。
正義感が極端さに変わった瞬間
実は私自身、かなり極端でした。
正義感を持ち、「なぜわからないんだ?」と相手に詰め寄ったこともあります。
そのときの私は、善か悪かというジャッジメントを常に下し、
自分の考えを正しいものとして人に強要していました。
でも、あるときふと立ち止まりました。
よく考えてみると、
都合よく自分なりに解釈しているだけではないか。
そう気づいた瞬間、頭の中で何かがほどけました。
「あっ、ここまでしなくてもいいや」
その気づきは、敗北感ではなく、安堵に近い感覚でした。
正しさにしがみつかなくてもいい。
白黒をつけなくてもいい。
そう思えたとき、視界が一気に広がったのです。
善悪ではなく、必要性で判断する
そこから私の中に、一つの軸が生まれました。
善悪で判断しない。
西洋医学が正しくて東洋医学が間違っている、その逆も同じです。
大切なのは、
今の自分に何が必要で、何が重要なのかを、自分で考えること。
急性の症状には西洋医学の力を借りる。
体質や生活を整えたいときには、東洋医学の視点を取り入れる。
医療の話でありながら、
これは「どう生きるか」という話でもあります。
極端な考え方は楽ですが、同時に自分を縛ります。
その縛りに気づけたとき、選択肢は自然と増えていきます。
極端な考えを、ほんの少し緩めてみる。
その余白が、判断できる自分を取り戻してくれます。
もし「自分の場合はどう考えればいいのか」と感じた方は、
今の状態を整理するお手伝いもしていますので、
必要なタイミングでご覧ください。

